騎士団長殺し―ダンス・ダンス・ダンスもう一つの結末

発売から一年以上経ちましたが、やっと読み終えましたので感想のような批評を皆様にお伝えしようと思います。

アラセブ村上

発売から一年も経つと『騎士団長殺し』は過去の村上作品を焼き移しに過ぎないとかつまらない、退屈だ、ひどい駄作だとかあらゆる批判を目にしてからの読み出しになってしまったのですが、僕の中ではいくら元気溌剌の村上さんでもアラセブのおじいちゃんだし(正確には今の時点でシックスナイン。最近では60代を老人とは呼ばないようだが)、いくら何でもピークはとっくの昔に過ぎ去っていると考えるのが普通なので、過度の期待を抱かずにページを開きました。

東北を経由しながら北海道へ。そしてぐるりと戻ってくる

妻に別れ話を切り出された私(主人公)は北の方向への当てのない旅に出るのですが、当てのない旅といえば『ノルウェーの森』の主人公ワタナベが直子に死なれた後の彷徨を思い出しますが、僕が最初に思い浮かべたのは『ダンス・ダンス・ダンス』で、読み進めるうちに騎士団とダンスが多くの点において符合することに気付きました。もっとも、巷で言われている通り、あらゆる点において過去の村上作品と同様なシチュエーションが登場するわけですが…。とりあえず、騎士団とダンスの人物表を作成してみました。

騎士団長殺しダンス・ダンス・ダンス
私(画家)僕(フリーライター)
免色 渉(IT長者)五反田君(人気俳優)
秋川まりえ(美しい13歳の少女)=小径(私の妹、12歳で病死)ユキ(13歳の美少女)
雨田具彦(日本画の大家)牧村拓(作家)+アメ(写真家)
秋川笙子(まりえの叔母)ディック・ノース(詩人でアメの世話人)
宮城の海岸で出会った痩せた女メイorジューン(コールガール)
騎士団長羊男、キキ

私と僕

村上さんといえば30歳で職業作家となり、その後派手な生活を送るでもなく(週刊誌に書かれるような)それまでの経験とマニアとしての知識をフル活用して小説を書いてきた印象を受けますが、その割には主人公に名前を付けることが少ない私小説的な村上さん自身の分身としての私や僕が登場することが多いように思われます。羊シリーズは全作僕として登場し、翻訳家を経てフリーライターという設定はいかにも村上さん自身のようです。一方騎士団の私は肖像画を描くに際して相手と直接会って会話を交わすことを第一義としていて、その行為そのものは前作『女のいない男たち』の村上さんそのものです。ちなみに私は肖像を描くという雪かき仕事で生計を立てています。それでは騎士団では僕ではなくなぜ私を使ったのかは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と同じようなテーマによるものなのでしょうが(そのことについては最後に説明しようと思っていますが)、ただ単にチャンドラーの翻訳の影響によるものなのかもしれません。マーロウが自分のことを僕と呼んでいたらかっこ悪いですもんね。けれど、英語ではどちらもなんですけどね。

 

免色さんと五反田君

54歳と35歳と年齢は離れているもののどちらも完ぺきにエレガントに見える人物。愛車はジャガーとマセラティ共に人物像にあった高級車。ちなみに私と僕はカローラとスバル。物語の後半に近づくとスマートな二人共々凶器をはらんでいることがわかるですが、そのことについても後半へ。

 

まりえとユキ

この二人は年齢も13歳ということで村上流同一人物と言って差し支えないと思います。まりえが最初にまともに私と会話を交わすシーンで口調がユキのようで思わず微笑んでしまいました。

 

雨田具彦とアメ

これは確信犯。幼いまりえはキャンバスと格闘する具彦の様子を興味深げに覗き見ていたと思います。それとは対照的に狂ったようにシャッターを切るアメの姿をユキは冷ややかな目で眺めていたかもしれません。将来的にはまりえは画家になるかもしれないが美術関係の仕事に就くかもしれない。ユキはかの世に吸い込まれなければ父親に対する反面教師的な意味あいにおいて、シンガーソングライターになるのでは…。

 

秋川笙子とディック・ノース

笙子はまりえのために生活し、ディックはアメのために生きています。ディックは交通事故でかの世へと追いやられ、笙子は身も心も免色の所有物となってしまう。
※僕とユキが別れる際にユキはこれから家庭教師になる人に会いに行くという。その家庭教師こそ秋川笙子的な人物なのかもしれません。

 

痩せた女とメイ

痩せた女は私に自分の首を絞めるように誘い、どちらの意思かはわかりませんが五反田君はメイの首を絞めて殺してしまう。この境界線が私(僕)と五反田君あるいは鼠との運命を分かつこととなります。

 

騎士団長と羊男

楽観と悲観―性格は正反対だが共に主人公を救おうとします。騎士団長は私に殺され、キキは鼠にかの世?に追いやられた後再び僕の前に現れますが既に五反田君によってかの世に戻された後でした。

ループとバランス

ループ

妻に別れを切り出された私は傷心の旅に出ます。東北を経て北海道に渡り再び東北を経てぐるりと戻ってくる。一方妻はハンサムな年下の男を経て何故か私のもとへ戻ってくるのです。それも赤ん坊を宿した体で。んっ?これっていつものパターンと違いますよね。いつもなら(恋人も含めて)いなくなってそのままになります。あるいは修復不可能になるはずなんですが、今回はあっさり復縁してしまう。それっておかしいだろう。現実にあるかっとお怒りになった読者も多いようですが、あるんですよね。実は私、若いころに同じような経験をしております。女ってずるいというかよくわからないですよね。だからと言ってここでの説明になりませんので自分なりの解釈を申し上げますと、村上さんはただ単にハッピーエンドにしたかったんだと思います。もちろんそれは『ノルウェーの森』の様に単純なエンディングではないのですが…。それはさておきハッピーエンドにしたかった理由は東北で大きな地震が起こってしまったことによるものだと思われます。東日本大震災では多くの人々が犠牲になり家族がバラバラになってしまいました。だからこそ一度バラバラになった主人公とその妻が元の鞘に収まるのを村上さんは望んだのではないでしょうか。

逆裏窓

村上作品において主人公はよく本を読むのですが、そのタイトルから本作品の解釈のヒントになる場合もあれば瞬間的には関係性があっても全体としてはほとんど意味を持たない場合もあります。有名どころで言えば、『羊をめぐる冒険』の中で僕が鼠のコンラッドの小説を読むシーンがあるのですが、『闇の奥』は村上作品全体に通ずるところがあり、映画化された『地獄の黙示録』のラストを本作品で引用されたといわれています。それでは映画はどうかといえば、騎士団長がリー・マーヴィン(映画俳優)のように眉を吊り上げたと、たとえとして使われることはあるのですが、作品解釈のヒントになることはまずないと思います。今回、私がヒッチコック映画のシチュエーションを引用したのに対して『白い恐怖』は二流作品だと政彦が言い放つシーンがあります。それでは一流作品とはどの作品を指すのと読者の中にははてなマークを浮かべた方もいらっしゃると思うのですが、ヒッチコック好きの僕はいくつか挙げることができます。その中で一番といってもいい大好きな作品が『裏窓』です。『裏窓』を騎士団的に表すとこんな感じになります。

トライアングルの一つのコーナーである秋川良信

秋川家を双眼鏡を通して覗き始めた免色は当主であるまりえの父が珍しく在宅しているのに気づく。だからなのかどうかわからないがしばらくすると身なりを整えた笙子が一人で外出する。そのまま秋川家を覗き見ていると自室から出たまりえが食堂にやってきて冷蔵庫を開ける。『ピンポン!』(ピンポンではないだろうが)免色宅に珍しく誰かがやってきたようだ。インターホンの画面に目をやると笙子がレンズの前で微笑んでいる。嫌な予感を感じ取った免色は返事もせずに再び双眼鏡をのぞき込む。食堂にはいつのまにか秋川が現れ、怯えて後ずさりするまりえに何か話しかけながらゆっくり迫っているではないか。いったい何があったのかとやきもきしていると秋川は突然腕を振り上げまりえをぶった。そしてまりえを羽交い絞めにするとまりえのジーンズのジッパーに手を掛けた。どうしよう。何とかしなければならない。しかし、ここからではどうすることもできない。その時免色の脳裏に浮かんだのは画家の私だった。すぐに携帯電話で私に電話をするのだが、私はスバル・フォレスターの男の絵と格闘中で、電話が鳴っているのに気づかないのであった。

騎士団の中の1Q84

実際の『裏窓』はこんな話ではないのですが、裏窓的シチュエーションとはこんな感じになります。もちろん騎士団本編にはこんな展開はないのですが、こうなる状況は常にはらんでいます。話だけで実際には登場することはないまりえの父は『1Q84』の中で雲隠れしている深田保に通ずるところがありますし、そもそも金銭目的のカルト宗教でさえ一人ぐらいはまともな予言者あるいは占い師がいるはずで、その人物が秋川に対して、お前の娘はお前の本当の娘ではない。彼女を取り込むためには彼女と交わらなけらばならないと言い出しかねないからです。もっとも秋川が自宅に寄り付かないのはまりえが大人になるにつれて死んだ妻に似てきているからではないでしょうか?

尖がったコーナーを持つ免色

双眼鏡のレンズの反対側である免色宅こそ僕が想像した『裏窓』もどきが最も起こりやすい場所です。そこで飛んで火にいる夏の虫状態に陥ったまりえは女物の衣類が整然と保管されているウォークインクローゼットの中に迷い込んでしまいます。彼女は衣類に守られていると感じ安心してしまうのですが、この場所こそ変態いやサイコパス免色を象徴する場所なのです。村上さんの中ではジョン・ファウルズ原作の『コレクター』をイメージしたのでしょうが、免色はまりえの母が病死した後整理された衣類を人を使って収集し、匂いや面影を残すために洗濯せずに特殊な方法で掃除をし防虫剤の中に浸して保管していたのだろうと思います。いつの日かそれらの衣類を身に着けたまりえの姿をゆっくり楽しむために…。

画家とモデル

言葉に出してしまうと本気には捉えて貰えないことがよくあります。『ダンス・ダンス・ダンス』の僕はユキに対して彼女と同じ年ごろだったら彼女に確実に恋していただろうと言いますし、最後の別れでは失恋した気分だと読者に伝えさえします。それに加え、彼自身はゆみよしさんに惹かれているのでユキに対するいやらしさを感じさせないのです。一方、騎士団の私とまりえの関係は画家とモデルなのです。特に裸婦の場合は性的関係を結ばないのは歴史上稀の様に思われます。機器を間に挟むカメラマンとモデルも同様なことが起こることが少なくないのです。それではこの二人の関係はどうかといえば、実をいうと二人とも薄々感づいているのではないでしょうか。だからこそまりえの肖像画は完成されなかったのでしょう。私はまりえの肖像画に女を描くことができなかったのですし、まりえ自身も女を描かれることを恐れたのかもしれません。そして、完成品が免色の神殿に飾れでもしたら邪悪の裂け目が閉じられるどころか大きく広げたに違いないのです。

バランスーまりえを取り巻くトライアングル

それではウォークインクローゼットのドアの前に現れたのはいったい誰だったのでしょうか?当たり前の様に免色かもしれないし、まりえの父かもしれないし、私かもしれないし、悪の象徴であるスバル・フォレスターの男かもしれないし、可能性は低いがNHKの集金係かもしれない。いずれにしろまりえは邪悪に取り囲まれているのです。

キキを殺さなければならなかった五反田君

キキは五反田君が自分を殺すことで五反田君自信を解決できたと言いました。私は騎士団長を殺すことによって雨田具彦やその仲間たち、そして私自身の悶々とした気持ちを開放できたのではないでしょうか。しかしながら物事はそう簡単には運びません。私は穴の中に閉じ込められて現世に生還することができずにいます。そんな私を救ってくれるのが免色です。免色は自身の中に澱んで溜まっているタールのようなドロリとした物質を閉じられた穴の蓋を開けることによって自身から放出し、私のまりえ救出の企てに手を貸す(私を穴から引っ張り上げる)ことによって自らの欲望の蓋を閉じたのではないでしょうか。

僕はべつにフェリーニとかタルコフスキーみたいなのしか見ないというようなシリアスでスノッブな映画ファンではないけれど

『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公が五反田君が出演する作品の究極の対極にある映画の代表として二人の映画監督をあげている部分。ただ、フェリーニは残した作品も多く黒澤明と並び称される大巨匠でありますが、タルコフスキーがこの世に残した作品は8タイトルと極めて少なく、若い人はほとんど知らないのではないでしょうか。作品の特徴はとにかく水が画面に写ります。しかも川や水路などの真水のみ。これはタルコフスキーがロシア(旧ソ連)の監督だからです(多くのロシア人が実際に海を見たことがない)。彼の作品の中で物語を決定づけるのが火(炎)です。モスクワ大学で東洋哲学を学んだタルコフスキーは自然の摂理で物語を進めることが多く、真言宗の護摩行の様に炎で状況を変化させようとします。村上さんはそのことを念頭に置きながら雨田具彦宅に火を放ったのではないでしょうか。

※これは『羊をめぐる冒険』の鼠の別荘の爆破とは異なります。あくまでも火災なのです。前者は人工、後者は自然あるいはアナログ(みみずくの形を借りたイディアの仕業かもしれない)のです。

村上春樹とイングマール・ベルイマン

村上作品における映画作品の記述はその場の状況を補完するだけでテーマのヒントにはなりえないと先ほど指摘しました。『裏窓』の話もあまりにも有名な映画的設定であるため、読者にああだこうだ言われる前に先回りしたにすぎないように思われます。実際直接のテーマには全く関係ない。あれだけ登場する音楽の記述もそれらから作品解釈をする書評など読んだことがないのでほとんど関係ないのかもしれません。もっとも、僕は音楽音痴なので記載されていることが全く理解できないだろうが…。にもかかわらず村上さんは初期の作品でミスを犯してしまいました。逆裏窓の所で取り上げたコンラッドの小説の描写です。あれは『長いお別れ』ではまずいが、『華麗なるギャツビー』でも『カラマーゾフの兄弟』でもよかったはずです。よりによってテーマのヒントとなる『闇の奥』(実際はコンラッドの小説とだけ書かれているのですが)を取り上げてしまったのはオタクとしての性みたいなものなのかもしれません。オタクはオタクとしての知識を語りだしたら止まりませんからね。作家は元来自作の出自は語りたがらないものですが、村上作品の音楽の記述の多さから考えると小説のことも映画のことも語りたくてしょうがないのではないでしょうか。それをぐっと抑えているのも羊での失敗を糧にしているのかもしれません。そういえば秋川笙子が読んでいる小説のタイトルはとうとう明らかにされませんでしたね。

僕は長い間村上春樹はベルイマン(スウェーデンの映画監督)に影響を受けているのではないだろうかと考えてきたのですが、今まで確固たる証拠を見つけることができませんでした。『騎士団長殺し』では大ぴらな描写があり少し驚いているのですが、その前にベルイマンの映画の特徴を上げておきます。

・登場人物の設定が普通の親族、家族、仲間であることが多い(村上作品の主人公はほぼ全員どこにでもいる普通の人)

・きわめて普通の現代劇(時代劇の場合もある)であるにもかかわらず現世にはない者?が登場する(村上作品には羊男などの特異キャラや騎士団長などの小人が重要な役割を演じることが多い)

・普通の人間の裏側(仮面の裏側)を描くことをテーマとしている(昨今の濃いキャラクターではない)

ベルイマン作品の登場人物は特殊どころで言うと牧師や時代劇で登場する大道芸人やマジシャンくらいで、中身そのものはほぼ家族の物語といって差し支えありません。ベルイマンは舞台出身の監督ではありますが、シェイクスピアよりもドストエフスキーに影響を受けているようなので、出自は村上さんと同じということでしょう。

物語がその様な普通の設定にもかかわらず、ベルイマン作品には悪霊や象徴としての虫、神は出てきませんがキリスト教の対極として悪魔まで登場します。映画監督の手塚真氏(父は手塚治虫)が指摘しているようにベルイマンなしには現代ホラー映画は語れません。初代『エクソシスト』(1973)のNYにやってくるエクソシスト神父を演じたのはベルイマンの三船ことマックス・フォン・シドーでした。

人間の嫌な部分を描くベルイマン作品はホラーばかりか普通のアメリカ映画にも多大な影響を与えました。『シンドラーのリスト』の様なシリアスなスピルバーグ作品の悪人描写はそっくりそのままベルイマン作品の登場人物の描写のいただきと言っても差し支えありません。

〈顔のない男〉と顔なし

顔なしはベルイマンの代表作の一つである『野いちご』(1957)の死期が迫りつつある主人公の教授の夢の中に登場します。これはシュルレアリスムとヒッチコック流サスペンスを合体させた傑作シーンで僕は自分の作品(小説)に引用したほど好きなのでこの二つの一致にはすぐに気づかされました。それに加え、このシーンにはもう一つ重要な描写が登場します。それは人気の全くない街路を歩いている教授が街頭の時計と自分の持っている懐中時計から針がなくなっていることに気付くシーンです。『騎士団長殺し』の私が顔ながに導かれて踏み込んだ世界も時計の針が何の意味もない―時間の概念を持たない同様の世界です。最後にこの夢のシーンは極めて示唆的な描写で終わりを迎えます。それは棺桶に横たわる別の教授(死人?)が本当の教授を棺桶の中へ引きずり込もうとするシチュエーションです。

『ノルウェーの森』の構成と危惧

『ノルウェーの森』を初めて読んだときは緑好きの僕としてはワタナベと緑とのハッピーエンドに気分を良くしてこの作品を読み終えたのですが、その後何度かこの作品を読むにあたってこれっていずれはハッピーでなくなるんじゃないの?と思えるに至りました。冒頭ハンブルクに降り立つワタナベの心理状況が尋常ではなかったからです。いやらしい言い方をすればこの技術的なごまかしの手法は『騎士団長殺し』においてはかなり目立った形で放置されてしまっています。なぜなら、かの世で別れた〈顔のない男〉はその後、最後まで登場しないからです。あれっ?契約はどうなったんだ?思い出すまでもなく、第1部冒頭の枠外のシーンで彼はしっかり登場していました。ということは契約はまだ続いており、まりえちゃんが危険にさらされ続けていることを示唆しています。確かに免色は笙子と結婚するかもしれないし、秋川はカルト宗教の深みにもっと嵌ってゆくかもしないからです。頼みの私も幸せボケで、〈顔のない男〉の肖像画を描こうとしないかもしれないからです。

神の不在

ベルイマン作品の最大のテーマである神の不在とは神様にお願いしてもどうにもならないことを意味しています。ならば、どうすればよいのか?たいていの場合主人公がきちんと家族を守っていけば何とかなるという形で物語が終わりを迎えるのです。

私と僕

それでは誰がまりえを守らなければならないかというとベルイマン映画では当然最も近しい父親の役割なのですが、上記に示した通り二人とも当てにならないというかむしろ近づけてはならない。だとするならば当然他人に解決してもらうしかなく、いずれ探偵が現れるのです。

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では世界の終わりは僕、ハードボイルドワンダーランドでは私と区分けされていますので、顔ながに導かれてかの世に入り込んだ私はその世界では僕となり穴から引き摺り出された時には私に戻ったことになります。とするならば羊四部作はかの世の世界の物語となってしまいます。『ダンス・ダンス・ダンス』の中に興味深いセリフが出てきます。僕の夢の中に出て来たキキは六体の白骨のある部屋もいるかホテルもすべて僕の部屋と言います。私の作り上げた世界=僕。僕=羊四部作となってしまうのですが、これは解釈が飛躍しすぎていますね。最初に申し上げた通りもっとシンプルな発想から私になったのではないでしょうか。

朝に自前の長編小説を熱筆し、午後に翻訳して疲れを癒す。村上さんはここ数年チャンドラー作品を立て続けに翻訳なされていて、この時期に『騎士団長殺し』の着想を得たのではないだろうかと推察されます。そう考えるならばIは素直に私と訳されるのです。

心の中に色々な問題を抱えた免色はある日『雨田探偵事務所』と書かれたドアに取り付けられた呼び鈴を鳴らします。「ちりりりーん」勝手に中に入るように促され、ドアを開け中に入ると机の向こう側に腰かけていたのは『女王蜂』事件を解決した頭をかく癖があるといわれている老齢の探偵ではなく、一見スマートに見えるがここぞというときには泥臭く事件を解決するフィリップ・マーロウのようなタフな探偵だったのです。

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