スター・ウォーズ/最後のジェダイ 批評 エピソード2

第一作のバランス

これを書いている最中に『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー(2018)』公開されるとあって、TVで最初の『スター・ウォーズ』をやっていたので斜め見したのですが、よくできた構成に改めて驚かされました。重ね重ね残念なのはサー・アレック・ギネスが演じたオビ=ワン・ケノービの役を三船敏郎さんが引き受けなかったことです…。当然若き日のオビ=ワンは謙さんか真田さんあたりが演じたはずで、日本人にとっては楽しみが増えたはずです。今となってはたらればのたらればでして…。そもそもどうしてルーカス氏がジェダイの騎士の達人の役を三船さんにオーダーしたかは先ほども少し触れた通り『隠し砦の三悪人』によるもので、この映画をもとに『スター・ウォーズ』が構成されたのはルーカス氏本人が公開当時から語っているのだから間違いありません。では『隠し砦の三悪人』は黒澤作品の中でどういう位置にあるかというと一番の娯楽作品(人によっては『用心棒(1961)』や『椿三十郎(1962)』を上げる人はいるでしょうが)と言って差し支えありません。ルーカス版スター・ウォーズシリーズの中で結局最初の作品が一番の娯楽作品となってしまったのも偶然ではないと僕は思います。では黒澤作品のスター・ウォーズシリーズへの影響とはどういったものかというと色々あると思いますので、ここでは“侍”に限定して説明してみたいと思います。

スーパー侍

三船さんは黒澤作品の中で様々な役を演じています。悪の王様から名医、そしてスーパー侍まで。三船さんが演じるはずだったジェダイマスターであるオビ=ワンは『七人の侍(1954)』のリーダー侍勘兵衛(志村喬さん)そのものですし、一見半端者に見えるハン・ソロは同作品の突然神がかり的な活躍を見せる菊千代(三船敏郎)だと言って差し支えありません。ハンが初代スター・ウォーズでライフルを持ってストームトルーパーの中に突っ込んで行ってもっと多くのトルーパーを引き連れて戻ってくるシーンはそっくりそのまま『七人の侍』の中にあります。それではルークは誰かといえば一番若い侍で仲間の侍のすごさにいちいち感激する(菊千代の馬鹿な行動にさえ称賛を送る)純真な勝四郎(木村功さん)でしょう。

少し話がずれてしまいましたが、娯楽映画の中ではオビ=ワンの様な達人の背景など説明されないのが当たり前です。『子連れ狼(1972~)』の拝一刀は公儀介錯人の過去を持ちますが、『座頭市(1972~)』の市はそもそもあり得ない人物です。黒澤作品はどうかといえば、ほとんどが芸術性が高い作品が多いため、人物の背景は描かれなくても人となりを容易に想像できます。ただ例外が二つあります。それが三十郎シリーズ『用心棒』と『椿三十郎』です。両作品とも何者かわからない達人の侍がふらりと町に現れ、悪い奴を叩っ斬っていなくなるという単純明快なストーリーです。

イーストウッド三部作と用心棒

不思議なことに『用心棒』を最も愛した人物は今やアメリカを代表する監督となってしまった俳優のクリント・イーストウッドさんなのです。そもそも彼の人生の分岐点となった『荒野の用心棒(1964)』(イタリア制作のイーストウッド主演西部劇。マカロニウエスタン最初の作品。セルジオ・レオーネ監督は版権を取らずに作品を制作してしまいますが、公開後、東宝に訴えられ、『用心棒』のリメークだと認め和解します)を愛しているのはわかりますが、その後監督・主演を務めた『荒野のストレンジャー(1973)』、『ペイル・ライダー(1985)』で自身で二度も用心棒を下敷きにした作品を作り上げるのです。

注目するべきはイーストウッドさん演じる流れ者のガンマンが『荒野のストレンジャー』では幽霊のようでもあり(元々は殺された保安官の弟であったらしい)、『ペイル・ライダー』に至っては殺された牧師なのです。その二人がそれぞれの映画で神がかり的な活躍を見せるのですから、外国人が『用心棒』を見た時の三十郎は人を超えた何者かに映ったとみて間違いないでしょう。

このことからスーパー侍であるジェダイの騎士の達人は人ではない神に近い存在なのです。ベイダーに斬られたオビ=ワンは死んだのではなく正しくは消えたのであり(事実ローブだけ残して肉体は消えてしまっています)、ルークもまた亡くなったのではなく別世界に移動したのが正しい解釈だと僕は思います。

ルークとレイの違いについて

誰でもご存知の通り旧三部作(4.5.6)スター・ウォーズシリーズはルークの成長の物語です。ルークは最初の物語で純真な田舎者の青年と設定されたため物語の都合上フォースの力を完全に獲得するためには修行をせざるを得ず、ヨーダに指示を仰ぎます。日本人には極めて当たり前のように見えるストーリーも欧米、特にアメリカではほとんどあり得ない行動なのです。アメリカでは大学を卒業すると誰でもいっぱしの社会人と見なされます。アシスタントは存在しますが、それはアシスタントという職業であって、日本の様なある職業のための取っ掛かりなのではないのです。そして当たり前の様に企業による新人研修もありません。新卒であろうとある程度年齢が言った人であろうとできる仕事からこなし、色々な書物や人から学び、時には学校に入りなおし、ステップアップを繰り返し成長してゆくのです。

黒澤作品において師弟関係はきわめて重要な要素なのですが、帝国の逆襲の様な直接指導のシーンなどないに等しいのです。典型的な例は正統派作品の集大成とされる『赤ひげ(1965)』を例にとってみますと赤ひげ先生(三船敏郎)は現在の研修医のような存在である若手エリート医師登(加山雄三さん)に直接指導することなく、自分の行動を見せ、彼自身が経験を積むことによって学んで行くようにさせ、映画の終わりには若手医師は立派な医者になっているというストーリーなのです。このように実際の日本社会で行われている若者への教育実習(ハローワークの教育訓練を含む)や修行という名を借りた丁稚奉公制度は黒澤作品の中には存在しません。これは黒澤監督がドストエフスキーやジョン・フォード作品に強い影響を受けているからだという考え方もありますが、戦時中に監督となった黒澤明という一人の映画監督が見続けてきた日本人のありようを理想と現実の中で描いてきた結果なのです。そして監督第一回作品の中にすでに理想と現実が混在しているのです。

ルークとレイの原型がそこにある

強い小兵の柔道選手を三四郎と呼ぶことがありますが、これは現実の柔術、柔道家をモデルにした富田常雄原作『姿三四郎』の主人公の様な選手を表す言葉です。『姿三四郎』は何度も映像化や漫画化され、後の格闘技ジャンルに多大な影響を与えた作品でもあります。その映像化の最初の作品が黒澤明監督の第一回作品となったのです。この作品は第二次世界大戦真っただ中に製作され、国威発揚映画の中で作家性を失うことなくしかも検閲のために一コマもカットされず(後に18分カットされる)に1943年に公開された極めて珍しい作品なのです。ただ、原作前半部分の三四郎のロマンスは割愛され、物語は発展途上にある三四郎が対決を経ながら成長してゆく物語となっています。ここで注目したいのは物語の冒頭、福島から上京した三四郎が師匠の門下生となり、修行を積むシーンなしに下駄のオーバーラップという時間経過の表現(約十か月ほど)でかなりの腕前の柔道士になって夏祭りで暴れているシーンです。先ほども申し上げた通り黒澤映画には実際の修行シーンが存在しない。実はこの後、戦って相手を傷つけることに悩んだ三四郎が師匠に稽古をつけてもらう(実際に組む)シーンがあるのですが、物語の性質上実際は稽古するのが当たり前なのですから、意味がないとみてよいと思います。それなのにこのシーンが検閲によりカットされたのは寧ろ当局が意味があるとしてカットしたことに意味があるのでしょう。ちなみに僕が学生時代大井町?で見たバージョンにはこのシーンがなかったようです。それはさておき、暴れん坊の三四郎は自分の力を持て余し悩んで師匠や和尚にその度に諭されるのですが、それにもかかわらず、あっけらかんとして新たな恋をしたりと極めて無邪気なのです。同様に『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』でのレイはいつの間にかかなりの力を有していますし、何より暗黒に引き摺り込まれようとしても平然としているし、自分ならレンを取り戻せると妙な自信を漲らせているのです。

先ほど僕は映画会社が変われば作品自体も変わらずを得ないと申し上げましたが、契約上ルーカスのアウトラインは新スター・ウォーズへ継承されたはずですし、メインキャラクターであるレイ自身のキャラも継承されたはずです。そう考えるならばレイは女三四郎と言わざるを得ないのです。※(ルーカスは新シリーズのプロットをディズニーに提出したそうですが、却下されたそうです。そもそも全シリーズを通して登場するのはC-3POとR2-D2だけだと公言していたはずですから、ルーク等が年齢のために亡くなった後の時代を描いた作品だったはずです。そう考えるならば、初代キャストを起用したいディズニーの目論見には反していたはずです。僕は上記の理由からこの噂自体眉唾物だと思っているのですが…)

それでは『姿三四郎』がルーカス版スター・ウォーズに影響がなかったといえば、そうとは言えず、三四郎への師匠や和尚の説教はヨーダの言葉へと受け継がれたのです。帝国の逆襲の中での初期のジャッキーチェンの映画のような修業のシーンはむしろ子供でも分かるようにしたためだと考えたほうが良いのではないかと僕は思います。

共に田舎育ちのルークとレイですが成長過程において大きな違いを有するのはルーカスが社会学を専攻していたためにルーカス版スター・ウォーズに東洋学を持ち込んだ結果であり、一方ディズニー版はアメリカそのものであり、女三四郎であるレイは黒澤明が自身の作品の中で何を目指していたのか関係してくるのです。

黒澤映画が目指した日本人の理想と現実

少し話しは外れますが黒澤監督が自身の作品のヒーローに託した思いを少し語りたいと思います。
・『姿三四郎』田舎から出て来た三四郎(藤田 進さん)は決めていた師匠を能力のために別の師匠に変えてしまうフレキシブルなところを持ち合わせ、新しい師匠に、お前は忠義が足りんと言われれば忠義を示すために池に飛び込みそのまま池の中で許されるまで水に浸かるという明治時代では当たり前であった日本的封建制度あるいは家父長制に反する行為をします。そして、すっくと咲き誇る蓮の花を見て反省し許しを請うように物語は進む(当局に睨まれない展開)のですが、これは蓮の花は沼の中で生きてゆけるのに自分は杭にしがみ付いていなければ死んでしまうと自分の無力さを実感したからです。この蓮の花の美しさこそ自立した人間の美しさを物語っているのです。

・戦後黒澤監督は映画史上最高傑作の一つといわれる『七人の侍』を公開します。この作品は後に市民戦争を予言したと言われています。市民戦争?南北戦争の様な内乱のこと?辞書的にはそうですが、戦後の市民戦争とは政府や地方自治体あるいは大きな団体や企業に対する訴訟や各種デモを意味します。場合によっては学生運動や労働争議も含まれるかもしれません。要するに一般市民が徒党を組んで御上に楯突くことです。『七人の侍』は農民が侍を雇って略奪者を遣っ付けるストーリーです。ここで重要なのは農民自身も戦いに加わることです。農民が市民と考えられたわけです。
 黒澤監督は共産主義者ではありませんが、ロシア文学に精通していてドストエフスキーの『白痴(1951)』を忠実に映画化していますし、ソビエトで映画も撮っています。(『デルス・ウザーラ(1975)』)そしてジョン・フォードが20世紀フォックスで製作した労働者と町民を描いた『わが谷は緑なりき(1941)』と『荒野の決闘(1946)』を念頭に『七人の侍』の製作にあったに違いありません。つまり、黒澤監督は早い時期、もしかしたら戦前から、日本にアメリカ的民主主義が根付くのを望んでいたのかもしれません。

・その後『蜘蛛巣城(1957)』で鷲津(マクベス)が名もない兵士達から放たれた無数の矢によって射抜かれるシーンを撮影します。これは原作では一騎打ちになりますので無数の矢は民の象徴になるのです。
・そして『隠し砦の三悪人』を製作することになるのです。この作品は菊島隆三氏の企画によるものですが、『七人の侍』以降立て続けに三作品も芸術作品を作ってしまった黒澤監督に会社から圧力がかかったのは想像に難くないでしょう。だからと言っては何ですが、農民の二人がヒーロー侍である六郎太(三船)に躍らせられながらも大活躍するバランスのとれた作品となったのです。黒澤監督はこの農民二人に戦後の逞しく生きる(欲深く、姫でさえ手込めにしようとする欲望を持った)一般の人々の姿を投影させたのです。だからこそヒットし、世界中、特にアメリカで大きな評価を受けたのです。

・しかし、民衆の蜂起に疑いを持ち始めた黒澤監督は『悪い奴ほどよく眠る(1960)』で復讐を着々と成し遂げてゆく主人公(三船)が自分の甘さのために逆に体制に葬り去られる(殺される)映画を製作します。このことはこれより先に公開された『どん底(1957)』(一生懸命生きているのにどうにもならない底辺の人々を描いた作品)において既に片鱗が見えていたと言えます。
・それから『七人の侍』から菊千代の様な農民出身のヒーローと戦う一般の民(農民)を除いたスーパー侍だけが登場する『用心棒』と『椿三十郎』を製作するわけです。

この頃までに日本にはアメリカ型民主主義が根付かないと黒澤監督は悟っていたのかもしれません。そして日本人の根底に張り付く他力本願のしみったれた根性は『用心棒』の中で三十郎が妾にされた女を助けるシーンで顕在化します。助かられた夫婦は三十郎に頭を下げるばかりで逃げようとしないのです。
三十郎「やめろッ‼俺は哀れな奴は大嫌いだ‼メソメソしやがると叩ッ斬るぞ‼」これは一般の日本人に叫んでいるように見えます。

この後製作のトラブルに相次いで見舞われた黒澤監督は現代版のどん底『どですかでん(1970)』を製作しますがスーパー侍のような人物が登場しないのでヒットせず、次の次の作品で勝新太郎さんの降板という、またもトラブルに見舞われましたが『影武者(1980)』を何とか完成させるのです。この作品は歴史上のスーパースターでさえも誰でもよい、誰でもなれるという現実を見せつけ(皮肉なことに主役が勝新から仲代達矢さんに交代したのですが、作品のクオリティーは変わらず、この作品はカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞します)、体制さえ整っていれば誰が会社の社長になろうが、政治のリーダーになろうが変わりがない日本人の偶像崇拝精神を暴露したのです。

※残念ながらこれを書いている現代でさえこの日本の社会構造は変わっていません。日大アメフト問題(我が母校―泣)や自民党政治もいざとなれば首のすげ替えで済ましてしまうのです。

ほとんど黒澤明論になってしまいましたが、黒澤明が目指したものが新スター・ウォーズのテーマでもあると僕は考えていますので長くなりましたが、ご容赦お願いします。それでは本論の方に戻りたいと思います。

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