スター・ウォーズ/最後のジェダイ 批評 エピソード3

善と悪

一般的なことですが、悪が善に戻るよりも善が悪の面に落ちてゆくのが簡単です。人間の精神はバランスの上に成り立っていて、ほとんどの人はどちらにも強く触れることなく過ごしています。特に善の方に触れ続ける人なんてほとんどいないでしょう。ただ、物語の中ではそれが極端な形で表現されます。特に娯楽作品においては。最初のスター・ウォーズの反乱軍(ルーク、ハン、レイア、オビ=ワン)は善、帝国軍(ベイダー)は悪とはっきりしていたために大ヒットしたのです。それが第二作以降、ルークとレイアの父がベイダーと設定されてしまったためにかなり様子が違ってきます。親は子殺しをできないという理由だけでベイダー(親)がルーク(子)の元へ戻る結末は消化不良を免れなかったでしょう。悪が善に戻ることの難しさはとりあえず横に置いておいてどうして善が悪に下るのかを考えてみたいと思います。

善人が悪に下るということ

一般的に善人が悪に下るのは
・男―権力、名声・金・女
・女―金・美貌
が得たいがために悪に転じるのであり、悪いことをしなくともこれらを獲得できる人は世の中にはたくさんいます。

『スター・ウォーズ/ファントム・メナス(1999)』で奴隷の少年として登場したアナキン・スカイウォーカー(ジェイク・ロイドさん)は当然何も手にしていません。しかし、オビ=ワン・ケノービ(ユアン・マクレガーさん)の弟子となり、戦士として力をつけることによって徐々に名声を手にしてゆきます。その後パドメ・アミダラ(ナタリー・ポートマンさん)と恋に落ち全てを獲得するのです。しかし、剣士としては文句がつけられないほど強くフォースの力もマスター以上なのにジェダイ・マスターになれないことを悩んでいます。

アミダラの不在

『スター・ウォーズ/シスの復讐(2005)』のアナキンがジェダイを裏切る姿は『蜘蛛巣城』の鷲津(マクベス)の姿を彷彿とさせますが、けしかけるのは妻ではなく最高議長ダース・シディアスなのです。常套手段なのですが、ジェダイ・マスターになれない(出自が関係していると思われる)アナキンを巧みに刺激しながら自分ならアミダラを助けることができると嘯くのです。結局アナキンはアミダラの死を阻止できずに大けがを負うことになります。アナキンのダークサイドへの滑落は大事な時のアミダラの不在が関係していると思われるのですが、アミダラの死後アナキンがシディアスに騙されたと悟らないはずはなく極めて不自然な形で第二部は終結するのです。

さて、善と悪の話は少し間を置くことにして、新スター・ウォーズシリーズへ戻りたいと思います。

エピソード6.5

最初に申し上げた通り僕は本流スター・ウォーズシリーズ8編と『ローグ・ワン/スター・ウォーズストーリー』しか見ていないので他のスピン・オフ作品や小説で描かれているストーリーは知る由もありません。ただ普通に考えるならばジェダイの帰還で皇帝シディアスもダース・ベイダーも死んだのだから帝国は事実上崩壊し、反乱軍が帝国軍の残党を次々に降伏させ、新しい共和制を樹立させたはずです。事実、スピン・オフの小説などを組み合わせるとその様になっているようです。

帝国(ファースト・オーダー)の巻き返し

フォースの覚醒につなげるために帝国の残党勢力として残された小さな国ファースト・オーダーが巻き返すきっかけになるストーリーが存在するはずです。もちろん現時点でスピンオフの小説はありますが、映画にはそんな話は存在しません。

少し創作してみますと、レイアが共和国の大統領になっていましてFOのスノークがレイアを含めた有力者を一挙に暗殺しようとします。『ゴットファザー』のギャングの暗殺のシーンを宇宙戦争的な感じで描きます。この時大事なのはレイア暗殺部隊の指揮を執るのがカイロ・レンなのです。

カイロ・レン

最後のジェダイでレンの中に化け物を見たルークがまるでゾンビに噛まれたからゾンビになる前に殺すみたいな感じでベンに斬りつけるのですが、このエピソードは巷で不評を買っているようですが僕もこれは本当にやっちまったなって思いました。そもそもフォースの覚醒でルークが主催するジェダイ養成教室でレン(ベン)が仲間を皆殺しにしたという、これもかなり頂けない話をさらに悪くしてしまったのです。それはさておき、ベンが悪に下るのを考えてみたいと思います。

幼少時

優秀な親に対して
・一般―頭が悪い(勉強ができない)、顔が悪い(おまけにデブ)、運動神経がない。
こういった子供(もちろんみんながみんなそうではありませんが)は親や周りの子供たちに対してコンプレックスを抱きます。もちろんいじめられます。

レイア姫、ソロに対して
・ベン(レン)―頭もいい、顔もいい、運動もできる。でも、フォース全くない。
ベンは自分にフォースがないのは父の遺伝のせいだと思っています―親子の確執の始まり

家庭環境

元々家(官邸)に不在がちだったハン・ソロ将軍は戦争が終結した後レイアを助ける仕事に就きますが、政治活動が性に合わないので貿易の仕事を再開していたのでますます家にいることが少なくなっています。同様に執務に忙しいレイア姫もまたベンにかまっている時間がないのです。ベンは孤独な少年です。

なぞの少女の登場

これはやりすぎのような気もしますが、展開してみます。ある日レイアがベンと同じ年ごろの女の子を連れてきます。この子はレイアの衣装係(地位が高い職種でなければどんなものでもよい)の女の子供のようです。この子とボール遊びをします。ボールを多くツボに投げ入れたほうが勝ちのゲームです。不思議なことにこの少女は一度もボールを外すことがありません。お前、なんでそんなにうまいんだっと、ベンが問うと女の子は、だって、投げなくても入れられるもんと言うと、ボールが宙に浮きどんどんツボに入るのです。驚いたベンは、お前、ずるしているだろう、マジシャンの子供かっと詰め寄り、掌で少女の胸を押します。当然女の子は尻餅をつきます。その様子を見ていたレイアがベンを激しく叱責します。たまらずベンは家を飛び出します。

御一行

ベンが不貞腐れて半分泣きべそをかきながら道を歩いていると向こうの方から二人の随行者を伴った老人が歩いてきます。ベンは老人に呼び止められ事情を話します。そして老人はベンに足元に転がっている小石をフォースで持ち上げてみるように言うのです。ベンはやっとのことで小石を一二センチ持ち上げることができます。初めて出来たのでベンは飛び上がって喜びます。それにほくそ笑んだ老人は私の弟子になればもっと大きな力を得ることができるというのです。そして付いて来るかと。家出をする勇気がないベンは断りますが、老人の後ろ姿に名前を聞きます。老人は私の名前はスノーク。私と会ったことは誰にも喋ってはいけない。私たちの秘密だからねっと言ってその場を去るのです。

女の子がこの後どうなったかは皆さんの方がご存知だと思います。

事件

その後月日は経ち、ジェダイ養成教室で事件は起こるのですが、前提条件が必要です。一つはベンがまだ全く力を有していなくて劣等生でしかもいじめられていること。そして、事件の前日あたりにベンはスノークと再会し、ダークサイドのフォースを得るのです。

そしてレンは祖父であるダース・ベイダーを崇拝し、祖父が成し遂げることができなかった宇宙制覇を自らの手で成し遂げようとします。だからこそ最後のジェダイでスノークを切り殺すのであり、ストーリーの展開上エピソード8でスノークを殺さなければならないのです。よって、エピソード9は皇帝レンの物語であり、それを阻もうとするレイ達レジスタンスの物語となるはずです。

以上レンがダークサイドに落ちる状況を僕なりに作ってみたのですが、エピソード9では本当にどうなるかわかりません。おそらくレイの秘密に関しては明かされると思いますが、レンに関しては有耶無耶にされそうな気がします。レイに関しては後から説明します。

観念で描くこと

上記に示した通り、善が悪に転じたり、下ってゆくのは物語上難しいことではないと思うのですが、悪が善に戻ってゆくのは極めて難しいと思います。アミダラを亡くしたベイダーは何を考えて生きてきたのでしょうか。もちろんオビ=ワンを憎み、反乱軍に責任転嫁してきたのはわかりますが、そもそも事の発端を作ったのは自分自身であり、嘘を吐いたシディアスであり、それが嘘と分かったにもかかわらず二十数年の間彼に従ってきた自分をどう思ってきたかです。ルークが来るまで待っていたというのはお笑い種でしょう。ただ大きな力に対して屈服し、それが服従となり、いつの間にか忠義になってしまったと言えなくもないのです。この極めて日本的な状況こそベイダーを取り巻く環境だったのでしょう。そう考えるならば、戦時中の映画の中で忠義が足りないと言われた三四郎こそ、ルークであり、レイであると言えるのです。いずれにしろ悪が善に戻るのを映画の中で、それもエンターテイメントの中で描くのは極めて難しいのです。

しかし、多くの映画で悪人の精神のバランスがまともに触れる(普通の人間に戻る)時があります。『スカーフェイス(1983)』もその一つです。麻薬王に暗殺の手伝いをお願いされたマフィアの顔役のトニーは標的が家族連れであるので計画を中止しようとしますが、暗殺者はそのまま実行しようとして車に爆弾を仕掛けます。トニーは暗殺者を撃ち殺し、計画を中止しますが、麻薬王の怒りを買い、今度はトニー自身が排除されるのです。これはイタリアンマフィアが家族を大事にするという一般的な概念から鑑賞者はすんなり受け入れるシーンです。もっともこの映画では家族を(時には狂信的に)大事にするトニーの姿が丁寧に描かれていますが。同様に、息子(ルーク)を助ける親(ベイダー)の姿を僕たちはすんなり受け入れ、すぐに死んでしまうベイダーの姿は現世でいくら悪事を働いたとしても仏になればみな同じという日本的仏教の概念で描かれているのです。これは靖国神社のA級戦犯合祀問題と通ずるところがあり、日本人の中でも揉めているのですからアメリカ人を含む日本人以外の人が映画を見ている時は流されてしまっても振り返ってみると“あれっ?”となってもおかしくはないのです。

このようにルーカス版スター・ウォーズはある意味極めてうまくストーリーを構築していますが、煩方には不満の残る作品となっているのも確かです。そして善と悪を真正面、すなわち観念で描いた作品が他に存在するかというと僕にはちょっと思いつかないのです。

極めて蛇足ではありますが、観念で描かれた映画とは何ぞやというと、SF作品で言えば『2001年宇宙の旅』―人類とは、『時計仕掛けのオレンジ』―人間の本質すなわちSEXと暴力、『惑星ソラリス』―愛、そして『ブレード・ランナー』ー人間とはが上げられると思います。この中でエンターテイメント作品として唯一位置づけられるのが『ブレード・ランナー』です。もっとも『時計仕掛けのオレンジ』もエンタメとは言えなくもないでしょうが、ホラー映画を見るような体験は毛嫌いする人もいるかと思いますので除外したほうが無難でしょう。

『電子的迷宮/THX 1138 4EB』を『スター・ウォーズ』のリバイバルで見たのか、PFFの特別上映で見たのか記憶は定かではありませんが、鑑賞したのは確かで、ほとんど何も覚えていません。ただ言えるのは1138 4EBは芸術作品であり、スピルバーグやスコセッシあるいはタランティーノの様な映画フリークではないルーカスが本来作りたかった作品はやはり芸術的な作品だったのではないでしょうか。そのような要素をうまい具合で配合された『ブレード・ランナー』しかも主演は子飼いの役者であるハリソン・フォードさんなのですから監督のリドリー・スコットをルーカスが羨んだのは確かだと思います。

ディズニーの中の新スター・ウォーズシリーズ

黒澤明監督が目指したアメリカ型民主主義とは一体どんなものなのでしょう。スーパースター(『七人の侍』の勘兵衛、『用心棒』や『椿三十郎』の三十郎)もいればヒーロー(『七人の侍』の菊千代、『隠し砦の三悪人』の六郎太)もいて一般の人々(『七人の侍』の農民『隠し砦の三悪人』の太平と又七)も時にはヒーロー並みの活躍をする社会だと僕は思います。『ローグ・ワン/スター・ウォーズストーリー』はジェダイの騎士は出てきませんが、一般の人々が戦士となり、ヒーロー的な活躍を見せるストーリーです。製作段階でトラブルがあったようですが、初代スター・ウォーズとの整合性を保つためにルーカスの意向をかなり反映された作品だと思われます。僕はこの作品を高く評価していまして、差し詰め農民だけの『七人の侍』(七人ではなくたくさんといったほうが良いだろうか?)と言えます。そして新シリーズのレギュラーであるフィン(FN-2187、新クローンかもしれない。自由を求めているところなどTHX1138であるとも言えます)がハン・ソロ並みの活躍を遂げるのもいかにもアメリカンドリームを疑似体験できるシリーズとなっています。そして、一部で評判の悪い最後のジェダイのラストシーンですが、箒のシーンで奴隷の少年にもフォースが存在するかもしれないとするのも新スター・ウォーズのテーマに適ったものです。そういえばアナキン・スカイウォーカーは奴隷だったはずです。旧スター・ウォーズはスカイウォーカー家を廻る王家的な物語を東洋的に描いた作品であり、新スター・ウォーズは色々な人々が活躍するまさにアメリカそのものなのです。

レイ

レイは誰でもないレイであってほしいのですが、スピン・オフの小説の中にはルークが子供を持ったという話があり、しかも名前はベン、男の子らしい。ベンはオビ=ワンの隠遁後の名前です。彼の名前を敬意を持って付けたのでしょう。おそらくほとんどのフリークの方はこのことを知っているはずなので、なぜレイアの子の方にこの名前が付けられたのかは謎です(トランプ的嫌がらせか、はたまたルークの子を女子とさせたいのか?)。フォースの覚醒でルークのライト・セイバーがレイを呼んだことを考えるとエピソード9では嫌な展開になりそうです。そういえばレイを演じるデイジー・リドリーさんはどことなくナタリー・ポートマンさんにていますよね。隔世遺伝というやつです。先ほどの創作で謎の少女を登場させてしまったのですが、嫌な展開が現実化してしまうと僕のスター・ウォーズの中のアメリカ型民主主義は崩壊してしまいます。

そういえば、アナキンの父は何者かわからず、アナキンはどうやら孤児のようです。(日本語訳では処女懐胎を臭わし、アナキンがあたかもキリストのような存在であると考えてしまうのですが、英語のセリフからはそうではないようです)そう考えるならばアナキン同様、レイの両親は存在しないのです。

最後に

冒頭、僕はスター・ウォーズに関して思い入れがないと書きましたが、実はロサンゼルスにある南カルフォルニア大学の構内にあるジョージ・ルーカス・ホール(USCの映画学科の建物)に同大学の学生の友人に連れられて中に足を踏み入れたことがあります。かれこれ20数年前の話です。その時感じたのは僕が卒業した大学の建物よりも芸術的な建造物だなあと思ったのと、出入りする学生が輝いて見えたことです。現在の自分の状況を説明するまでもなく、彼らの中には将来世界中の人々が見てくれるものを作り出す人が必ずいるはずだと思ったからです。当時はまだ自分にも可能性があるんじゃないかと勘違いしていましたので、単に羨ましく思っただけだったのでしょうけれど、その時すでにダークサイドに足元を掬われていたのかもしれませんね。いずれにしろ、予想以上に長い評論になってしまったのも心の片隅にこの時の思いがあったのかもしれません。

最後にキャリー・フィッシャーさんのご冥福をお祈りいたします。

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