御府内八十八ヶ所巡り 平成二十八年六月 二

六月十七日

先週の亀戸行でかなりの疲労がたまり、なかなか調子が回復しなかったのであるが、それに加え梅雨に入ったこともあり、一週間間が開くことになった。天気予報は曇りだったのであるが、実際はほとんど陽が照っていて、額から汗が滝のように出て来て、やはり最後は疲れ切って、今回は足の痛みよりも体の全体の疲労、熱中症にかかっていたのかもしれないが、中村橋まで何とか歩き切って、電車に乗って一息吐いて、ひばりヶ丘から家まで歩いて帰った。予定の御寺参りを終了した後、サプリメントを飲んでいないことに気付き、その時に服用したためか、あるいは電車で休んだためか、ひばりヶ丘の駅からは勢いよく歩くことができて、15時までに帰宅した。燃料切れの原因は池袋まで足を延ばし金券ショップをなかなか見つけられずにうろうろしたためなのは予想できたのだが、梅雨に入った後の気温30度越えはやはり身体に響いたものだと思われる。

先週は6時に出発したが、今回は30分遅れの出発となってしまった。そのためではないのだろうが外に出た時にはすでに蒸し暑く、目白通りを歩いている時にはかなり暑さを感じたのだが、蓄積された足の痛みは回復したような感じで左の太腿が少し吊りそうな感じがあったが、結局は大丈夫だった。

第七十六番所 金剛院

金剛院は椎名町の駅前にあるのだが、この辺りの住所は長崎となっていて、地図上では椎名町はおろか東長崎もなく、あるのは長崎と南長崎だけで、ビックカメラの歌ではないが、西武線の不思議がここにもみられるのは摩訶不思議なことであるのだが、理由は帝銀事件にあるらしいーそんな事実も全く知らなかった。とにかく他の西武池袋線の駅と同様にこの椎名町の駅もリニューアルされていて、昔の面影は全くない。おそらく、山手通りの大工事と合わせたのかもしれず、駅前の再開発に合わせて、金剛院もリニューアルしたようだ。三十年も西武線沿いに住んでいるのだから、金剛院の前も通ったことがあるのは記憶しているのだが、昔の面影は全く覚えていない。それはさておき、横には信用金庫、前には小さな本堂の長崎不動尊、そして寺院内にはおしゃれなカフェと、とっても新しい感覚を持ったお寺であるのは確かだ。大泉に東映動画を持つ西武線沿いのお寺だけはある。面白いことに漫画地蔵まで存在する。御朱印を戴いた時に若い(四十以上はいっている)住職から冷えた緑茶と羊羹と世間話まで戴いた。ちなみにお茶を戴いたのは初めて。

おしゃれなカフェ

境内内から

マンガ地蔵

そのアップ

この後池袋まで歩いて金券ショップを捜してうろちょろしたのだが、西池袋が本当にきれいになったのを実感したのと、駅の周りの住宅街は何処も路地が狭くて、普通の大きさの消防車が入れないのはよくわかった。大きな地震が起きれば巷で言われているよりも大きな被害になるのではないかと思った。いやはや日本は爆弾を抱え過ぎている。

第三十六番所 薬王院

この辺り一帯、落合、上高田も含めて意外と坂が多く、裏門から入ってゆくと見事な庭園の中を下ってゆくような形になっていて、ここは牡丹で有名なお寺の様だが、すでにその季節ではなく、青々とした庭園が広がっていた。

住宅街の中にこんな絶景のお寺があるとは信じがたい

第八十五番所 観音寺

疲れていたのか写真が斜めです

神田川沿いの道路の上に墓地があったのだが入口を捜している内に早稲田通りに出てしまった。墓地が頭の上にあるのは変な感じだ。正面の入り口から見るとコンクリートの本堂を立ててからだいぶ経った感じで、本堂の前でお参りをした後、御朱印を戴くために寺務所のインターホンを押してもうんともすんとも言わず、門から中に入るときにすれ違って出て行った男が寺の寺務員だったらしく、飯時だから出て行ったのだろうか?門や本堂が開いているのに……。うろちょろし、やはり誰も出て来ないし、疲れたので駐車場の縁石に座り込んで、また来るかと思い込んでいた時に歩くときに地面に着かな無いように白い袈裟を持ったおばさんが、待ちましたと、墓地の方から声を掛けた。どうやら女性のお坊さんらしく、法事があったみたいだ。本堂に通され、飾ってあった法事のおばあさんの写真の横で御本尊に手を合わせ、その後ロビーで冷たいお茶を戴いたり、女性の住職とお話しできたり、何かと得だったのだが、いかんせん休めたのが良かったかなっと油断してしまって、後からこれが響くこととなった。察するにすれ違った男は住職のドラ息子ではないかと私は推察したのだが、どうだろう?

途中小滝橋通りを路地に入るとかなり年季の入ったマンションがあり、そこに保育園から子供を連れて帰宅した若い奥さんを見かけた。身なりとマンションがどうも釣り合わず、旦那さんあるいは奥さんそのものも身入りの良い仕事についているのかもしれず、新宿に近い場所ならではの光景を見た気がした。

第二十四番所 最勝寺

観音寺で少し休んだためかすんなり中井駅まで戻ったのだが落合を抜けた道の様子はよく覚えておらず、熱中症気味だったのかもしれない。とりあえず山手通り沿いの最勝寺に着くことができた。ここもまた山手通り沿いの大工事に伴ってリニューアルしたのか、とても新しく、きれいなお寺だった。何でも北条時頼によって開創されたそうだが、その中にあって異彩を放つのは岩窟の中に並んでいる七福神の石像か?

意外と新しい七福神

第五十八番所 光徳院

人気の五重塔

妙正寺川沿いを歩き、小高くなったところに光徳院があった。いつもの様に間違って裏門から入り、墓地を抜けたところに五重塔が聳え立っている。造成されたのが平成になってからのようだが、総木造りのためかマニアには人気があると言う。よく見るとすでに風格さえある。そななことを思いながら墓地を抜け境内に入ると何処かの親父、同世代、がスマホをネコに向けて写真撮影を行っていた。デジタル時代になってからの風物詩だ。振り返ってみれば、スマホのカメラを使う人間が、フイルムのカメラで猫の写真をバシャバシャ撮ろうとは思わなかったはずだ。なぜなら、技術的にも金銭的にも敷居が高かったはずだからだ。それを横目に見ながら、寺務所で御朱印を戴いた。その後、境内を出ると、写真撮影はまだ行なわれていた。こんな炎天下で、そんなことをやっている親父が存在するのだから、私も含めて仕事があがったりだ。いい写真を撮るには忍耐とレンズを向けた対象に対する愛以外に勝るものはない。それはさておき、山門から外に出ると石段になっていて、おそらく昔は境内に向かう石段だったのだろうが、周りにはとても古い借家(貧しい人が住むような平屋)やこれまたかなり年季の入ったアパートなどが囲んでいた。察するにお寺自体が大家か、あるはだいぶ昔に仕方なしにこの場所を売ったのかもしれない。近年、五重塔を建立するための寄付金を集めることが出来ても、わずか数年前はそうだったのかもしれない。

この辺りから疲れが出始めたのだが、あと四か所、それも距離的には近い場所にあるのでそのまま真っ直ぐ目的地に向かった。中野区江古田に住んでいた時に中野に行くためによく通った中野通りの陸橋を見ながら住宅街を進んでゆくと雑木林が見られた。しかし、そこは日蓮宗のお寺で、隣だと思い、墓地の中を抜けたのだが、善定院の名前がない。百観音明治寺とある。恥ずかしいので寺の人に聞くこともできず、隣接する百観音公園で休んでいたおじいさんに尋ねたが、返事がなく―呆けているようだった。途方に暮れてうろちょろして墓地の横を通って先ほど来た道に戻ると密蔵院とあった。なーんだ思いつつもなんか変な気がしたのだが先に密蔵院にお参りすることにした。

第四十一番所 光蔵院

寺の門には珍しい冠木門を潜ると隣とは打って変わって、とにかく、古くて、道具などあちらこちらに散らばっていて、本堂も開けっ放しになっていて、普門院ほどではないがどこか田舎のお寺のような感じだ。とりあえず、手を合わせて、隣の家の方のインターホンを鳴らしたのだが返事がない。ぐるりと回って、また押すが返事がなく、家の方も、網戸が開けっ放しになっていたので、シカトかっと思いつつも、途方にくれながら、隣の寺に戻る。

隣の寺の寺務所―お守りを売っているところに行くが誰もいない。法事に来たおばさんに声を掛けられるが、遠慮して、外に出た。仕方なしに周りをぐるりと回ることにした。実はこの明治寺、明治天皇の病気快癒のために観音菩薩像を建立したそうなのだが、明治天皇はそのままお元気になることなしに他界したために、そのままにするのもなんだと供養の為にたくさんの札所から観音像の写しが作られ、今は百八十にもなると言うかなり有名な場所であった。

ぐるりと回り、あきらめたところで子供の声がすると思ったら幼稚園があり、隣はなんてことは無い善定院だった。

第四十八番所 善定院

このお寺も第二次世界大戦の空襲の後本堂が再建された綺麗なお寺であった。丁度幼稚園に迎えに来た親御さんさんの印象が強く、御朱印をどなたから頂いたのさえあまり覚えていない。おそらく熱中症にやられていたのだろう。

その後、もう一度密蔵院に戻って、インターホンを押すと中に奥さんがいらっしゃった。先ほどはどこかにお喋りに行っていたのかもしれない。もう一度足を運ぶ必要はなかったので助かったと思い、御朱印をお願いすると本堂に案内され、その場で書いて戴き、御本尊の前で御経まで上げて戴いた。申し訳なかったのであるが、御朱印代のみの五百円をお渡ししたところ、お釣りまで返してくれた。思わず受け取ってしまったのだが、そのまま彼女にお渡しするべきだった。後悔。その後世間話を少しして出る。待った甲斐があった。

で、ほとんど北上して、江古田に向かう。この場所にお寺があるのはなんとなくうろ覚えだったが、私が中野区江古田にいた期間は大変短かったので仕方がない。

第二番所 東福寺

山門をくぐると右隣に保育園があり、お母さん方が屯していた。時刻はちょうど15時。その中に東南アジア系―フィリピン?のお母さんがいた。大都市東京では国際化が進んでおり、外国人の住民も増えている。ただ待機児童問題が叫ばれる中、幼稚園に入ることができる園児の親御さんが外国人とは、決して差別ではないが、何とも不思議な気がした。かえって、外国の方のほうが得なのだろうか?ご住職の若奥さん?から御朱印を戴き、その場を後にする。

この辺りから完全に事切れてしまった私は途中で道路のガードレールに腰掛けてしまうのだが、照りつける太陽の日差しが強すぎて立ち止まるとかえって具合が悪くなりそうだったので脚を引き摺るように中村橋まで向かった。短い距離であったのだが、大変長く感じる。

第十五番所 南蔵院

大変大きなお寺であった。住職が直接御朱印を書いてくれて、納経した私の延命十句観音経をじっと見ていたのが印象的だった。

この後短い距離であるにもかかわらず中村橋まで長かった。

閻魔堂の裏は普通に住宅街

首つぎ地蔵ー私の首も修復してほしい

歩行距離
14.9km 自宅→金剛院
1.9km 金剛院→池袋駅
2.3km 池袋駅→薬王院
1.1km 薬王院→観音寺
1.3km 観音寺→最勝寺
1.2km 最勝寺→光徳院
1.5km 光徳院→善定院
0.2km 善定院→密蔵院
0.9km 密蔵院→東福寺
2.3km 東福寺→南蔵院
1.3km 南蔵院→中村橋駅
3.7km ひばりヶ丘駅→自宅

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